コラム

勝手に「ファミリーヒストリー」

製造部

戦後、焼け野原となった神戸の市街地で
見覚えのある顔を偶然見かけ、声をかけた。

出征後、音信不通となっている恋人の甥だった。

五体満足で無事でいることと、
ビルマで終戦を迎え、
日本に向かってるという恋人の安否を知る。

そして、帰還した日に神戸港まで迎えに行き、
数年ぶりの再会を果たし、二人は結婚をした。


これは、墓じまいのため神戸を訪ねた時に
親戚から伺った、私の祖父母の実話です。

自分の祖父母に、映画のようなドラマチックな物語があったとは知りませんでした。
20年ぶりに会った親戚から、
たくさん興味深いお話してもらい、感銘を受けたので、
NHKの「ファミリーヒストリー」のように、
自分の内輪話をここに記したいと思います。

祖父は映画俳優のハンフリー・ボガードに憧れて、
ビシッとスーツを着こなし、
帽子の被り方から、煙草の吸い方までハードボイルドにきめる、
いわゆる「モボ」だったそうです。

祖母は近所でも有名な美人で、
裁縫が得意で、おしゃれな洋服を自分で繕って着こなす、
いわゆる「モガ」だったそうです。

二人は同じ職場で知り合い、
交際をスタートさせます。

祖父は自分の車で祖母を迎えに行き、
映画鑑賞やアイススケートを嗜む、
とても派手で目立つカップルだったそうです。

そんな幸せの最中に、
祖父は、新規事業立ち上げのために、
旧満州国の奉天に赴任するよう会社から命じられます。

祖母は結婚して一緒に奉天に行きたいと願いますが、
当時海外に行くことは、現代と比べると随分とハードルが高いことでした。
家族から説得され、数年後に帰任するまで待つことにします。
婚約をして、祖父は単身で渡航しました。

暫くは文通をして連絡を取り合っていましたが
戦争がはじまり、祖父は現地召集され戦地に赴くことになります。

戦争が激化し、手紙のやり取りが出来なくなり、
音信不通になってしまったということです。

それから数年が経過して、
冒頭の話に遡るのですが、
祖母が偶然見かけた祖父の甥は、
婚約の挨拶の時に一度会っただけで、
名前は思い出せず、本人かどうかも確信は持てませんでした。

女性から声をかけてあらぬ誤解を招かないかと思い、
祖母は迷いましたが、
当時の神戸は焼け野原で、
祖父の家族が何処に住んでいるのかも分からない状態だったので、
思い切って声をかけたそうです。

その頃には祖母も20代後半となっていました。

当時の結婚適齢期を越えており、
生死不明で、音信不通の待ち人に執着して
婚期を逃したらどうするんだと、
両親から何度ども言われていましたが、
頑として譲らず、縁談を全て断って祖父の帰りを待っていたそうです。

祖父の無事を知って、
子供みたいにワンワン泣きながら祖母が帰ってきたという話を聞いた時は
胸に迫るものがありました。

他にも、色々なエピソードを教えてくれました。

神戸大空襲の時に
焼夷弾の投下が近くまで迫る中、
祖母はギリギリまで家財道具を井戸に投込んだそうです。
爆撃機が過ぎ去った後、家は全壊しましたが、
井戸には使えるものがたくさん残っていて
一家は随分と助かったそうです。

祖父は現地召集され、訓練もそこそこの状態で出征しました。
ビルマは大変な激戦地で、18万人の兵士が戦死したのですが、
英語が堪能だったこともあり、
通信傍受の任務を主にしていて、
前線に出る機会が少なかったから祖父は生き残れたそうです。

更に江戸時代まで遡ると、
先祖は赤穂の塩で財を成した塩問屋で、
赤穂浪士に金銭的な援助をしており、
文献にも名前が載っているそうです。
ご先祖様が大石内蔵助と接点があったことを知り、感慨深くなりました。

思いがけず自分の祖父母や先祖の逸話を知ることができ、
たくさんの人達の偶然と必然が絡み合った軌跡の上に
今の自分が存在していることを思い知りました。

先人達に恥じぬよう、
一生懸命に頑張って生きていこうと、改めて思いました。

長文乱文失礼しました。
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