コラム

萩原歳子会長を偲ぶ(1)

総務部

 こんにちは、総務の萩原いづみです。
 会長の思い出を語るにはまだ早すぎるのかもしれませんが、私の記憶が薄れないうちに(?)、当社の礎を築いた会長をみなさんにお伝えしてみたいと思います。
七五三七五三  会長は昭和2年浅草生まれ、四人姉妹の末っ子。実家は、雇い入れの大工さんや職人さんがいる建築屋さんでした。四人の中では一番活発な子供だったようで、両親は会長に家を継がせたかったと聞いています。また子供のころ毎年クリスマスプレゼントをもらっていた!と聞いたことがあります。ハイカラな家風に育ったんですね。粋でおしゃれだった会長のルーツはこの辺にもあるようです。

 戦中戦後は家業も苦しくなったようです。女学校時代は勤労動員で駆り出されることが多く、ろくに勉強することができなかったことがとても残念だったと、よく語っていました。勉強がしたいのに出来なくて悲しかったなんて、私たちはありがたい時代に育ったんだなと反省!です。(今は仕事で頑張ります(^_^;))
 戦中は今の埼玉県加須市に疎開し、そこで慣れない農作業をしたり、都会から来たということでいじめにあったり、苦労があったようです。女学校卒業後も上野松坂屋で働きながら、お針子さんの仕事もして家計を支えていたようです。お姉さんと夜なべをしてから松坂屋に出勤していた、とも聞きました。松坂屋では書籍売り場に配属されたということで、この時から本との出会いが始まっていたのですね。

昭和32~33年 会社の前にて昭和32~33年 会社の前にて 裕福な子供時代には、長野県の山田温泉で夏休みを過ごしており、そこで夫となる萩原崇男(先先代社長)と出会っていました。崇男が戦争に行く前に母の実家を訪ね、プロポーズをして戦地に向かったようです。「風立ちぬ」を連想させるようなエピソードですね。戦争が終わり二十歳の若さで結婚し、戦争で焼失していた萩原印刷所を再開しました。その頃の会長の体重は40㎏もないような細い身体で、用紙をリヤカーに積んで買いに行ったり印刷物を届けていたようです。資金を銀行から借りるということすら知らなくて、いろいろな人に教えてもらいながら経理仕事を身につけ、また営業にも子供をおぶって出かけていたようです。(つづく)

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